児相担当は変わるのか?
4月です
2回目の入院は3週間で退院しました
児相からは特に連絡もなく。
周りの児相と関わりのある方たちは変わらなかったや変わったと言ってるなか、うちは音沙汰無しです…
なので自宅交流を週一ペースでお願いしてます
できれば変わって欲しいけど、児相職員は癖が強い人が多いのであまり期待してないです
主治医や支援者達と話をして、外泊をゆっくり何度も繰り返して完璧にやらなきゃいけないという思考のくせを知っていこうとなりました
あとは児相がどう判断するかです
何年かかってもいい。いつか一緒に住めるならわたしは何年でも治療を続けていきます
息子のために生きていきたい
ステップアップ 外泊
4月に引き取らなければならない……
2月半ばにやっと外泊に進み、会っていない間に子は歩き、軽く走れるようになっていました
衝撃でした
成長がみれなかったことがこんなに辛く悲しいものだと初めて知りました
一刻も早く我が家に帰ってきてもらわねばと思いました
子は1歳5ヶ月になっていました
4月に引き取れば乳児院には頼れなくなりますよと言われたことはプレッシャーに感じました
ママ歴0ののわたしがイヤイヤ期間近の子を見れるのか不安でした
自己主張もしっかりでてきても、会えない期間が長すぎて泣いてる子を見る度に責められてるような、乳児院の方がいいと言われてる気持ちになり涙が止まりませんでした
子はそんな事は思ってなかったのに、結局私は乳児院にあずけた自分自身を1番許せなかったのです
その頃から育児が怖い出来ないしたくないと気持ちが心のシミみたいにでてきました
認めたくありませんでした
一年以上、私たち夫婦は子と会えないことに苦しみ、どうやったら会えるだろうともがいてきました
なのに育児したくないなんて思いを認めたくなかったのです
なので、乳児院と同じ生活にしようと思いました
先生達みたいに笑顔でいつでも反応して、怪我をさせないように常に張り付いて動き、手作りの料理や生活リズムを徹底的に合わせました
その結果、1泊、次の週の2泊の頃にはヘトヘトに疲れ果て、夫婦揃って体調を崩してしまい。
私はこの時に大パニックに陥ります
「2人で育児はできません!」と
ですが、両家ともサポートなどできず、私はもう絶望し、育児をやりたくない!出来ない!と泣き叫びました
多動がでて、一日中体を動かし子の写真に土下座し謝りました……
あまりにもおかしくなったので、薬の調整のため2度目の入院をすることになりました
2度目の保育園入所を辞退した時もとても悲しかった
児相 ステップアップ
年末に退院をしたため、保育園の入所手続きをお願いされ病人ですが頑張って手続きを行い受かりました
ですが、主治医に4月に引き取りは厳しいと言われ、私たち夫婦は保育園を辞退しました
その後、面会、外出とステップアップしていくのですが
乳児院で何度も何度もコロナが流行り……私たち夫婦が子に会えたのは1年の2割も会えませんでした
日毎に焦りました
罪悪感も増長していきました
どんどん成長していき、初めてをみれない悲しみがつらく。
コロナで面会禁止になった誕生日、クリスマス、年末年始は夫婦で抱き合い大声で泣きました
児相には保育園を申し込んでくださいと言われてたので、次の年の保育園を申し込みし、受かりましたが以前と会えない日々が続いて、外泊ステップアップは4ヶ月遅れとなっており、
今思えば夫婦ともに焦りを感じるようになっていたと思います
そして今年の2月。やっと外泊のステップアップが始まりました
医療保護入院
子を児相に預けた日沢山泣きました
夫にも申し訳なくて土下座して謝ってた記憶があります
次の日、紹介された入院先に医療保護入院されました
担当医は言い方でよく話を聞いてくれました
一時保護は2ヶ月と聞いていたので1ヶ月以内ででれるだろうと思っていたら、3ヶ月入院と言い渡され
児相に入院して2週間後、乳児院に入所するよう同意書を求められ応じなければ親権をとる裁判をすると言われショックで泣いたことを覚えています
夫私の両親は頼りにできませんでしたので、入所せざるを得なかったです。
薬がよく効き、入院は2ヶ月弱で終わりました
妊娠中もコロナ禍で苦しい思いをしましたが、引き取りに向けてもまたコロナ禍に苦しめられていくことになるとはこの時は思いもよらなかったです
産後うつと診断されて
あの時のことはあんまり思い出したくないです
母が無責任にチアノーゼがでてるんじゃないかといいました
私にはそう見えなかったのに、紫色に見える!と騒いだのです
不安になった私は近くの小児科に電話しました
泣きながら電話したので、病院に母に代わってといわれました
母が「勘違いだったから」と切りました
私は大パニック
歩いて3分の小児科に小雨の中傘をさして行こうとしました
そうすると、母が雨だからやめろといい、言い合いになりました
泣きながら夫に電話したら、仕事を早めに切り上げて帰ってきて、心配なら総合病院に行こうと言われました
泣きながらタクシーに乗り、救急で見に行きました
写真を撮っていたので小児科にも説明しました
何も問題はなかったのです
その時、私の心はバリンっと壊れた気がしました
育児が怖くなりました
母がいれば不安になるし、でも1人でみるなんて到底耐えられないと思いました
24時間子育て相談ができる、乳児院に電話相談しました(ほぼ毎日かけてました)
そこで児相と繋がるよう声をかけてくださいました
救急精神科ダイヤルにも連絡しました
朝まで頑張って主治医に電話しようと説得されました
あの時の相談員さんには感謝しています
朝になり、児相に「子供を育てられる状態ではありません」と泣きながらいいました
一時保護になりました
主治医に電話受診で「死にたい!!」と泣き叫んでました
「死んだらだめだよ約束できる?入院して休もう。子育ては長いんだから、少しくらい休んだっていいんだよ」といわれ、
次の日には息子を保護してもらい、わたしの精神科入院が決まりました
産後うつになる前⑤
遠方から実母に来てもらいましたが、感情のジェットコースターは相変わらず。
細かいことは書けませんが実母は歪んでいる所があります
産後の娘をケアするなんて微塵もおもわないというか自分の思考以外の考えを想像出来ない人なんですね
子の死を恐れすぎて強迫性障害になった私にとって実母は甘えたいけれど甘えられない
ただただ負担になる存在でした
母もコロナ禍で新生児を看るため外には出れないストレス、娘と母の考えがズレすぎて理解できない、自分の言うなりにならない娘に嫌気がさしていたと思います
どんどん追い詰められて、結局1人で一日中子を見ていて不眠になりました
夜中の泣き声で起きるのは私のみ
昼も自分でみていました
身体は常にだるく重いリュックを背負ってるよう
常に興奮状態で子が死ぬかもしれない恐怖
母が「ちょっと子の体調おかしくない?」軽く言うのでパニックになり、病院や電話相談、色んな所に相談していました
常に怖かった
子は健康なのに死ぬのが怖くて怖くて取り憑かれていました
生後1ヶ月になる頃、不安が最高潮になりキッチンをずっと歩いていました
死ぬか消えるしかないとおもって体が痛いのに動いていないと辛かった
無意識に不安を煽る母が特に怖かったです。
悪意があるとしか思えませんでした
保健師に勧められて、久しぶりに元々受診した主治医に産後うつ状態といわれました
その後、入院になるキッカケができます